umon-tachibana                                       ※写真転用不許、 撮影/特記以外、橘 右門 
                                                          2011-8-22 追記/2011-8-21 記述
宮城県塩竈市遊ホールでの復興支援企画、ココロノキンセンアワーへの出演の機会をいただき、塩竈市へと向かいました。

出演の前に甚大な被害を受けた石巻市を案内していただき、その状況に言葉を失いました。
翌日は浦戸諸島(松島)の桂島と塩竈市内公民館の避難所を訪問させていただきました。(現在、両避難所は既に閉鎖されています。)
被災地の復興と被災された方々を今後も想い続ける為に、訪問した時点の状況と活動の様子を画像で報告致します。


※ココロノキンセンアワーについて
       
※東日本大震災の被害状況     --- 12/10 (2019年)  警視庁発表 ---   ( 適時更新:2020/1/21 更新) 
    死者      15,899/15,895(2018/3/9)15,894人(2016/1/8)/15,891人(2015/3/10
                             
/15,884人(2014/3/10)
/15,868人(2012/8/22)
    行方不明    2,529
/ 2,539人(2018/3/9)/2,584人(2016/1/8)/ 2,633人(2014/3/10)/ 2,939人(2012/8/22)
    
-------------------------------------------------------------------------------------
    
避難者     48,633人  --- 12/27 (2019年) 復興庁発表、12/9 現在 --- ( 2019/ 1/10 時点/ 52,731人
                ( 2015/ 8/13 時点/ 198,513人)
               
 ( 2014/2/26 時点/198,513人、2012/11/ 2 時点/71,565人 、※2011/11/ 17 時点 / 328,903人 )
                
2011/11/17  岩手、宮城、福島3県内の仮設住宅などの避難者数が把握され、加えられた。
                
※内訳 1)住宅等(公営、仮設、民間賃貸等)    24,258人            
                     2)親族・知人宅等   ・・・・・・・・・・・・・・  24,155人          
                     3)病院等  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・      220人          
                     4)避難所(公民館、学校等)  ・・・・・・        0人           
 
                     

    -------------------------------------------------------------------------------------
    
震災関連死   3,739  --- 12/27 (2019年) 復興庁発表、 9/30 現在累計 --- 
               
      ・岩手県(469人) ・宮城県(928人) ・山形県(2人) ・福島県(2,286人) ・茨城県(42人)
                     ・埼玉県(1人) ・千葉県(4人) ・東京都(1人) ・神奈川県(3人) ・長野県(3人)
                  2018/ 9/30 累計/ 3,701人  : 2015/ 9/30 累計/ 3,407人)

                ※「震災関連死の死者」とは「東日本大震災による負傷の悪化等により亡くなられた方で、
                  災害弔慰金の支給等に関する法律に基づき、当該災害弔慰金の支給対象となった方」(復興庁定義)


 
 ※復興庁ウェブサイト 被災者等の状況はこちら 

※状況経過
    震災関連死の人数が3,000人を超える (2014-3/31/2014-5/27 復興庁発表)  
    福島県震災関連死(1,605人)が直接死(1,603人)の人数を超える (2013-11末/12/17 読売新聞・朝刊)  
震災関連死の人数の速報値が精査された為、一部の県で変動し、修正発表された (2013-5-11)
・警視庁被害状況の広報について (2013-4-1)2013-3-11 をもって毎月1回(原則10日)の広報となる
・復興庁発足 (2012-2-10)2011-12-9 復興庁設置法案国会成立 ※震災発生10年後(2021-3-31)までに廃止予定
・自衛隊に原子力災害派遣終結命令発令震災発生後の災害派遣が全て終了 (2011-12-26)
・宮城県塩竈市浦戸諸島、桂島で牡蠣の収穫が復活 (2011-10-30)
・自衛隊大規模災害派遣終了原発付近、除染(150人)、入浴支援(50人)は継続 (2011-8-31)
 ---
3/14 派遣命令以降、陸海空延べ1063万人派遣(8/30 現)/最大時10万7千人態勢 ---
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  新宿から仙台へ(6月4日深夜)

新宿西口発24時15分の仙台行きバスに乗車、定刻に出発。

3列独立シート、トイレ付の車両ではありましたが、
2時間毎にSAでの休憩もあり、今回の準備で前日は徹夜でし
たが、熟睡は出来ませんでした・・・。

安達太良SAを出発後暫くして、今までより減速した走行である
ことに気が付きました。 間もなく安定走行であった車体の上下
動が増し、地震により路面が波打っている区間を走行している
ことをを知りました。

被災地が近づいてきたことを実感しました。
      6/6、午前4時 東北自動車道・安達太良SA
  石巻市へ(6月5日)
6時30分、仙台駅到着。

早朝にも関わらず、茅根(ちのね)さんが迎えに来て下さいました。
この日が初対面なのですが・・・、本当に嬉しいことです。
被災された皆さんへの茅根さんの想いを感じました。

また、仙台在住の私の大学時代の後輩、斉藤氏が今回の活動
の支援を申し出て下さり、駅前で合流しました。有り難い。
斉藤氏との再会も10数年振りでした。


茅根さんのご案内で、打合せの前に石巻市を訪ねました。

仙台松島道路から三陸自動車道を経て市内に近づくにつれ、
自衛隊の災害派遣の車両が徐々に増えてきました。

市内を走行するパトカーも他県からのナンバーであることに気付き、
全国からまだ多くの警察官も応援に来ていることを認識しました。
市内の被災した様子を徐々に感じながら進んでいると、突然目に飛び込んできたのがこの光景です。 (6/5、7時40分頃)
石巻市門脇町付近/【がんばろう!石巻】の看板、地図で確認するとコンビニがあった場所のようです。
今までに経験したことのない状況が広がっていました。

街があったはずの場所に人が居ません。家も店も何も無いのです。動物も居ません。音もしません。色彩も感じません。
 『これ、なに?・・・』、状況が理解できず、現状を受け入れることが出来ませんでした。
道路の瓦礫が撤去されただけの状態、かろうじて街があったことをうかがい知ることができる程度。


経験が全ての想像の原点だと思っています。
でも経験したことのない状況下では、感情を失い思考も止まっていました。

後方は集められた瓦礫の山。(その先が石巻港になります。)
数メートルの高さの壁が広がっているようです
高台まで津波が押し寄せたことが解ります。
火災で消失した形跡も見られました。
暫くは瓦礫の街にカメラを向けることすら出来ませんでした。
多くの方が犠牲に、今だ行方不明の方が多くいらっしゃる地域です。
車から降りることもはたしていいのか?

しかし、被災地を目の当たりにする機会を得たものとして
この光景を伝えることも大切なことと思い、
その土地に立って撮影したのがこの数枚です。


壊滅【この言葉を軽々に使っていいのか?悩みましたが、
この状況を表現する為に、ご容赦いただきたいと思います。】した
街に人の営みを感じる瞬間を見つけました。

サイクルショップの〝営業中、出張修理OK〟の張り紙。

多くの自衛隊の皆さんが活動していました。
交通整理する隊員の前を車で通過する度に、
自然と頭を下げている我々でした。

壊滅地域外でも津波による損壊が激しく、地盤沈下も生じています。
冠水している地区も多くありました。
周辺の信号は点灯していません、警察官による手信号です。
 ● 塩竈市遊ホール/ココロノキンセンアワー(第3話)出演(6月5日)  
石巻市を後にし景勝地・松島を経由して塩竈市内へ、港周辺の被災状況を視察させていただいた後、遊ホールへと向かいました。

9時30分、遊ホール到着。 

3年前に出演させていただいた時のことを思い出しながら楽屋へ、斉藤氏の協力を得て準備を開始しました。

実演時に舞台後方に懸架する看板の設営から、舞台上の机位置、ビデオカメラ、プロジェクターを確認し、準備を完了しました。

準備完了後、今回の活動を支援していただく為に、東京から今日塩竈入りした越後屋さんと本塩竈駅で合流しました。
越後屋さんは、寄席文字教室の生徒さんです。教室で今回の活動予定を報告したところ支援を申し出てくれました。嬉しいことです。

今回の実演は、寄席文字を紹介する為ではありません。
被災された方々の想い、願い、誓いを寄席文字で代筆させていただくことが目的です。


リクエストをいただいた方から、その文字への想い、願いなどを聞かせていただいてから、色紙に書かせていただくことにしました。
その為にスタッフの方がマイクを持って会場内に待機していただくことをお願いしました。
筆耕した色紙は、終演時にロビーでお渡しし、更に時間が許す限りロビーでもリクエストにお応えしたい、その準備もお願いしました。

会場でのリクエストのサポート、ロビーでの色紙のお渡し、実演時のサポートは、斉藤氏、越後屋さんが積極的に申し出てくれました。
一日限りの「右門一座」、素晴らしいチームワークです。


撮影/斉藤正志(以下、遊ホールでの写真)
13時30分、開場/14時開演。

茅根さんの司会により開幕しました。
  第1部 佐藤雅子(宮城教育大学教授)さん率いる民族舞踏団「雅座」公演。
  第2部 「寄席文字の世界」(15時20分~16時)。
  第3部 再び「雅座」。
最後は、出演者一同がステージに登場しご挨拶。

16時30分、終演。
設営、準備完了 「寄席文字の世界」開演 皆様へのご挨拶と慰労から

私の想い、『がんばっぺ塩竈』を下ろして リクエスト文字への想いをお話しいただく 皆さんからのお話を伺いながら筆耕
終演後、ロビーで色紙をお渡しする
『和』はこの子のお名前でした・・・。
ロビーでも多くの方の想いを
書かせていただきました。
終演後、佐藤館長のご意向を受け、
「がんばっぺ塩竈」と「右門のめくり」を寄贈。

     本塩竈駅近くの道路のヒビ割れ
         (後方が遊ホール)
   遊ホール周辺の信号はまだ点灯していない、警察官が手信号で交通整理

 ● 浦戸諸島・桂島/避難所へ(6月6日、午前)  
7時30分、マリンゲート塩竈出港。(塩竈市営汽船)

 ※遊ホール・佐藤館長、茅根さん、越後屋さん、そして茅根さんのご友人である氏家さんが避難所での活動の記録をしていただく為
   に同行していただきました。 皆さんのご厚意、ご協力に感謝を申し上げます。
 塩竈港を出港した船から湾内を見渡すと、津波で大きな被害を受けた建物が目立ちます。
 高架線を走るのはJR仙石線、高城町まで開通していました。 
 鉄道愛好者としては一部開通でも嬉しいことです。 但し、全線開通するには、まだ相当の時間がかかると思われます。
  現在のJR仙台支局運行状況はこちら   

穏やかな海でしたが、
航路には津波で流され
た大量の瓦礫がまだ
沈んだまま撤去されて
いないとのこと。

通常航路は航行不能
の為、大きく迂回して
桂島へ。

桂島港はのどかな風景に見えたのですが・・・
島の高台にあるのが
旧浦戸第二小学校の
体育館、ここが避難所
となっています。

海岸線の建物は、カキ
の作業場。
津波の被害を受け使用
不能状態ではないかと
思われます。


午前8時、桂島到着
乗船してきた 『うらと』 は野々島へ


港に上陸した際にも津波による被害だと思われる場所はありました
が、佐藤館長が『あの坂道を上がると光景が一変しますよ』と一言。

避難所から車で迎えに来ていただいていましたが、その一変した
地域を歩いて行くことにしました。
そして坂道を越えて見えたのがこの状況です。

島は港の反対側から10m以上の津波に襲われ、島の半分が特に
大きな被害を受けていました。

島の特産品である、海苔、カキの養殖棚は全部流されて全滅した
そうです。


8時15分、避難所(旧浦戸第二小学校)に到着

 
・避難者数 40人(2011-6-3 現在)
 
校庭に仮設住宅を建設中でした。

8時30分 お話を伺いながら
ご希望の文字を筆耕させていただきました。
笑顔もあり、皆さん明るくお元気でした。
         9時05分 2回目の筆耕です。
    避難所以外の方々にもお集まりいただきました。

           撮影/氏家信一   撮影/越後屋まなみ
住宅120戸のうち71戸が全壊、損壊したものの、200人の島民には1人の犠牲者も出なかったそうです。

チリ地震の経験から津波に対する認識が高く、また消防団の皆さんが率先して島民を高台に避難させたのだそうです。
中には『消防団員に背負ってもらった・・・』との話しをしていただいた方もいました。
直接、貴重なお話を伺うことが出来ました。

10時40分、避難所を出発。

避難所を出る時、『最後のだ
よ、もう暫く作れないから・・・』
とお土産に海苔をいただきま
した。

そのお気持ちに、胸が熱く
なりました。


撮影/氏家信一
今年の夏向けに作った海水浴場のトイレ。
一度も使われないまま
津波で破壊されていました。
         11時、桂島を出発。
      
港まで送っていただいたお二人。
          ありがとうございました。

塩竈までの湾内、
カキ棚の修復かと思われます。
塩竈港の岸壁には打上げられたままの漁船が
まだ放置されていました。

11時30分、マリンゲート塩竈到着
 ● 塩竈市公民館/避難所へ(6月6日、午後)  
12時50分、塩竈市公民館到着
 
・避難者数 19人(2011-6-3 現在)

建屋1階奥のスペースが避難所となっていました。
段ボールで仕切られた居住スペース、映像では見る光景ですが、
実際その場に伺うと、突然他人の寝室に立ち入ったようで居た堪れない。
話す声も自然と小声になります。


写真の手前右側の机が共有スペースとなっており、ここでお願いします
との説明を受けましたが、どうしても気が引けその場から離れました。

茅根さんに 『ここではご遠慮させていただきましよう』 と進言しましたが、
避難所のご担当者と調整していただき、別室に筆耕スペースを設けて
ご希望を伺うことになりました。
お話を伺いながら 後ろの段ボールのスペースは、支援にいらしている
三重県名張市の職員さんの寝床です。
遊ホール・佐藤館長のご協力をいただきながら、
筆耕後の色紙に落款を押印しました。
撮影/氏家信一
 ● 仙台市より南/亘理町、山元町周辺へ  
茅根さんのご案内で仙台から南下し、津波被害の大きかった地域の状況を視察させていただきました。 (15時過ぎ~)
仙台東部道路から常磐自動道を走行しました。 まだ、津波に流された瓦礫・車がそのままの状態の光景が続いていました。
広大な仙台平野を走る高速道路の左右、明らかに光景が違っていました。 道路が津波を止めていました、防波堤となったのです。
 

常磐自動車道を山元ICで下りた後、あっ!と思う光景が
目に飛び込んできました。走行中に被災、津波に襲われ
た貨物列車です、牽引していたコンテナ車は流され脱線
転覆、既に撤去されていましたが、車体の下半分が津波
をかぶりながら線路上に留まった機関車がまだ放置され
ていたのです。
常磐線、浜吉田ー山下間の南泥沼踏切

札幌発 → 隅田川行き 92レ、 走行する姿に想いを馳せる・・・     
コンテナ車が牽引されていた仙台方向   ED75 1039 (ED75のラストナンバー)/プレートはJRにより撤去
こんなに悲しい鉄道写真を今まで撮ったことはありません、
この機関車が再び走行する日を望みます。
復興支援列車として復活運転されないだろうかと期待します。
 ※2011年11月頃、解体されたとのこと・・・。
相馬市方向(上り、上野方面)を望む。
この周辺かなりの範囲、瓦礫・線路は撤去されています。
それでも、通過する車は一旦停止を忘れていませんでした。
 ● 仙台より帰京(6月6日、夕方)  

仙台発17時50分のバスで帰路に。

村田JCT手前、この先左側が亘理町方向です。
あの光景は見えないまでも頭をよぎります・・・
            6/6 仙台駅東口
23時25分 東京(板橋車庫)に到着
 
※利用したバスの終着(板橋車庫)が自宅から徒歩20分程の場所であり、日付が変わる前には帰宅出来ました

 東日本大震災の被災地、避難所を訪問させていただく機会を得たことで、震災後の現状を直接目にすることが出来ました。
 想像を絶する光景、状況でした。報道で接する映像、レポートはその表面のごく一部を切り取ったものであることを感じました。
 
 この震災で日本国中の人達が自然の猛威に衝撃を受け、被災された多くの方々への支援と協力を誓ったことと思います。
 被災地の状況、被災された方々が負った苦難は図り知れません。
 今後も継続的、長期的な支援と協力が必要ではないでしょうか。

 今回の支援活動を通じて多くの事を実感させていただきました。
 今後も自分に出来ること、相応しい支援を継続して行きたいと思います。

 今回の支援活動の申し入れを快く受け入れていだたきました、塩竈市のご関係者の皆様。
 ココロノキンセンアワーを企画され出演の機会を与えていただき、2日間に渡り多々ご配慮、ご調整をしていただきました茅根さん。
 出演の際から翌日の避難所へのご案内、現地から帰京後に渡るまでご配慮をいただきました遊ホール・佐藤館長。
 避難所での活動を映像、画像で記録していだきました氏家さん。
 当方の活動に対して支援を申し出て下さいました、仙台の斉藤さん、東京から駆け付けていただきました越後屋さん。

 皆様のご配慮、ご支援、ご協力のお陰で無事支援活動を務めることができました。
 改めまして御礼申し上げます。

 最後に、遊ホール、避難所でお目にかかりました皆様、被災された多くの皆様に、一日も早く安泰が訪れることを祈念致します。


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